【トーシロ民族文化論】竹取物語って悲しい話なの?

私は趣味で英会話教室に通っているのですが…(あ、ちなみにココ:駅前留学のNOVA

その時、アメリカ出身の先生に言われた一言。

「竹取物語って、悲しい話なの?」

私は、頭を抱えました。竹取物語って、悲しい話、なのかな?

第一回目の、トーシロ民族文化論。

【トーシロ民族文化学論の注意点】

  • ド素人が勝手に述べている議論です
  • 浅学が薄い知識を展開して、勝手に考察しているだけです
  • 私は敬虔に信仰する宗教はなく、強いて言えば神道的考えが強いため、宗教的な考え・捉え方には勘違いや間違いがある場合もあります
  • もちろん調べてから書き、どんな考えにも敬意を抱いています

つまり、本人は楽しく書いているだけです。どうぞ、お付き合いくださいませ。

竹取物語の概要

竹取物語、かぐや姫。

あまりに有名なので、わざわざ書く必要もないでしょうが…改めて概要を。

竹取のおじいさんが、竹やぶで光る竹を見つけました。竹を切ったら、中に女の子がいました。おじいさんは驚くも、女の子に「かぐや姫」と名付け、おばあさんと共に育てることにしました。

かぐや姫はどんどん育ち、とても美しい女性になりました。

その美しさから5人の貴公子から求婚されますが、かぐや姫は無理難題を押し付け、求婚を断ります。帝とは良い感じにはなりますが、結婚はしません。なぜなら、かぐや姫は「月へ帰らなければならないから」。

月から地球へ来た理由は、月での罪を償うため。

満月の夜、月から天人がかぐや姫を迎えに来ました。悲しむおじいさん、おばあさんに、かぐや姫は不死の薬などを渡します。

かぐや姫は、天人から天の羽衣を着せられ、地球の記憶をすっかり忘れ、月へ帰ります。

これが有名なかぐや姫。では、改めて質問を。

「竹取物語って、悲しい話なの?」

竹取物語=はっきりと「悲しい」とは言えない

確かに、もの悲しい話ではあります。

育ての親、竹取夫妻との永遠の離別。結婚できないのに、求婚される煩わしさ。いい感じになった帝との別れ。すべてを忘れさせられてしまう天羽衣。

別れと忘れ。死とも捉えられるような、悲しい話。

でも、これは「月での罪を償うため」であると、天人は言います。

いわゆる、仏教的な「愛別離苦」ですよね。愛する人と別れる苦しみ。

愛別離苦は、人間が人生で乗り越えるべき試練で、これらは避けられない。四苦八苦というもの。でも、これらを乗り越えた先に解脱がある。

と考えると、かぐや姫目線なら、

罪を償った結果(愛別離苦などの苦しみを乗り越えた結果)、すべてを忘れて(煩悩を消すことができて)解脱した、とも考えられる訳で。

仏教的な観点だと、かぐや、解脱できてサイコー!な結末じゃぁないですか。

そう考えると、一概に「悲しい話」とは言いにくい。うーん…

「罪」の捉え方が違うからか?

でも確かに悲しい。この差はなんだろう?と考えた時、仏教とキリスト教で「罪」に対する考え方が違う?と推測しました。

アメリカ人の先生はクリスチャン。竹取物語が作られた当時は、仏教がすごく盛り上がっている時代。宗教的な考え方の差が、悲しさにつながるのでは?と。

私は敬虔な仏教徒でも、キリスト教徒でもないので、考え方・捉え方に、勘違いや間違いはたくさんあるかと思いますが…ここからは、あくまでも私の考えを書いていきますので、ご了承ください。

仏教では、罪は自身で徳を積み、四苦八苦を乗り越えて償うもの、というイメージ。

罪を償えず、徳を積めなかったら、輪廻転生。餓鬼からやり直し、みたいな。きちんと徳を積んでいけば、無事解脱!輪廻の輪から解き放たれ、いざ仏様の世界へ!!

つまり、解脱して生まれ変わりのサイクルから出れるのが幸せ、というか。

今しんどいのは前世の罪のせい、という考えが出てくるのも、輪廻転生の輪が切れていない=徳が積めていないということだから。

一方キリスト教では、罪はイエス様が代わりに償ってくださった、というイメージ。

イエス様が責め苦に遭い、磔にされ亡くなったものの、3日後に復活をされた。それにより、神から人間の罪は許されたと。

つまり、イエス様が罪を肩代わりしてくれた分、今生きている自分は罪を許されている状態、というか。だからこそ、イエス様・神を崇め感謝しましょう!という考え。

なので、前世の罪とか、自身が償うべき罪は、ある意味存在していない状態ともいえるのかなぁと。イエス様が身を挺して、私の罪を償ってくれたんだもの…!と。

罪の捉え方から考える、かぐや姫の立場

仏教:罪は自身で償って、解脱がサイコー

かぐや姫は、地球に来て愛別離苦を経験し、罪を償った。だから、すべてを忘れて月へ帰る(=解脱)ことができたと。

そう考えると、かぐや姫は仏教的にはサイコー状態ですよね。

仏教が盛んな時代だし、竹取夫妻も帝も、この別れはかぐや姫の解脱だ…と納得している可能性すらあります。

竹取物語の最後には、不死の薬を「日本で一番高い山」で焼いたというエピソードがあります。死なずに生きていくことを、良しとはしなかったんですよね。だって、輪廻の輪から出られないから。

ちなみに、不死の薬を焼いた山→不死山(ふしやま)→富士山(ふじさん)という名前が付いた、という話もあります。

キリスト教:罪はイエス様の贖罪により許されている

月で何か罪を犯していたとしても、すでに贖罪により、許されているはず。

なのに、地球で悲しい別れを経験して、しかも記憶も消されて、月に帰らなければならない。

そう考えれば、ただただ悲しく辛いですよね、かぐや姫。何も良いことがない人生。。

竹取夫妻と帝にしても、愛した人が記憶もなくして消えてしまうなんて、悲劇以外の何ものでもない。

結論。

さて、ここまで独断と偏見で意見を書いてきましたが。

結論として、かぐや姫は悲しい話、なんでしょうか?

私は、悲しいけど、かぐや姫本人は幸せなんじゃない?と考えます。

竹取夫妻・帝と愛される人に恵まれ、悲しい別れはしたとはいえ、記憶をなくした後の月での生活は、きっと素晴らしいもの(天人もそう言ってたし)である訳で。

悲しい経験もあったけど、結果、今が幸せならOK☆結果オーライ♪みたいな。

人間は生まれてから死ぬまで孤独で、本人にしか自身の幸不幸も決められないんだとすれば、かぐや姫的にはしあわせな話、なのかなぁと。


竹取物語 現代語訳 (河出文庫) [ 川端康成 ]

こんな感じで、トーシロ民族文化論は進めていきます。

感想・反論・意見など、お問合せで頂ければ、また議論を深めていきますね。

※ただの否定・批判のみの意見に関しては、スルーしますのでご了承を。

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